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日韓の違い [民族性]

日韓の国民性を比較して、ある人が7割がた共通だと書いていたが、私もそんなものだと思う。名古屋人や大阪人なら8割がた共通するといってもいいかも知れない。しかし残りの2~3割の彼我の違いとはなんであろう。
もっとも大きい違いはやはり「サラン」(愛)だろうと思う。あちらには愛があり、こちらには愛はない。あれだけ恋愛ドラマを多く作りながら、韓国は離婚率世界一であることをおかしいという人もいるが、これはまったく矛盾ではない。愛が重要だからそれがなくなれば態度をはっきり決める。われわれのように妥協はしない。愛があるから離婚は増える。
日本には愛はない。あっても借り物であり、その意味をわれわれは知らない。「愛」とは外来語だから、日本本来の大和言葉に似た概念を探すと、「ほれる」という語の古語「ほる」がある。これは情熱で自分の心が空洞になってしまう状態をいう。{放る、ほうける」などが類語と推測される。また和歌の世界では、相手に打ち明けない恋「忍ぶ恋」が至上のものとされる。これに共通することは、主体は自分の心情であって、相手ではないということだ。日本人の恋愛感情では相手を重要視しない。
しかし、愛は違う。相手こそ重要なのであって、打ち明けない恋など恋の名に値しない。だから相手を選択し、限定し、そして守るのだ。韓国人はチッキョ(守る)という言葉が好きなようだが、これもここから派生している問題だろうと思う。
これは歴史や宗教にも大きく影響する。元来東洋では汎神論的世界観が一般的であり、中でも中国や日本は、儒教と仏教という元来原理的には鋭く対立する思想を並存させ、ときには混交させてきた。ところが李氏朝鮮、あのチャングムで有名な中宗はアジアでは珍しい本格的な仏教弾圧をやっている。政治的にはともかく、思想的には儒教の立場からの仏教弾圧である。そう、考えてみれば親に孝、君に忠を説く儒教と出家のために親もすてろとする仏教では相容れないものをもっている。韓国人は思想や宗教の浮気をしないのだ。サランがあるから。現在、アジアでもっとも成功したといわれる韓国のキリスト教の布教だが、実に国民の25%が一神教のキリスト教に帰依している。どこかの国のように神社も協会も寺も見境のつかず、宗教人口が実際の人口の2倍(一人で複数の信徒・信者であることを示している)になるのとはわけが違う。それは宗教の浮気など許しはしない。また韓国では仏教徒もやはり25%だといわれるが、日本の仏教と違い、宗派対立が先鋭である。日本では宗派対立など聞いたこともなく、宗論でさえ重要なものは徳一と最澄のものぐらいしかない仏教だが、あちらでは宗派間で抗争さえある。自分の信じるものは、パンデシチッキョしなければならないからだ。 これが愛なのだ。愛を鮮明にするために対象をより純粋にしなければならない。どうしてアジアで朝鮮だけがこうした国民性を獲得したのか、理由はわからないが、これが彼我の最大の相違点であろうと思う。サラン クロンゴヤ

タグ:サラン
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